論説野村克也氏「人間の才能には限界があるが頭脳に限界はない」


どの世界にも「名監督」と呼ばれる人物はいるが、彼らはなぜ名監督たり得たのか? 現役時代は強打者として三冠王を獲得し、引退後は監督として3度の日本一に輝いた野村克也氏(81)は、何も教えてもらえなかった選手時代の監督が反面教師だったという。野村氏が語る。  * * *  1954年に入団した南海で首脳陣から叩き込まれたのは、「気合い」や「根性」といった精神論ばかりだった。野球を勉強したくてプロ入りした私は正直ガッカリした。でも、すぐに周りを観察し始め、気付いたことをメモするようになった。これが監督業に役立ったね。  私の監督としての根本的な信念は、「理を持って、接する。理を持って、戦う」。野球は「根性」ではなく「頭脳」で競うスポーツだ。「どうするか」を考えない人間に「どうなるか」は絶対に見えやしない。そして、考え抜いた「理」を選手に伝える手段が「言葉」だ。チームを変えるのは、監督の言葉の力が全てといっていい。  プロ野球選手はみんな自惚れが強く、ライバルより自分が上だと思ってる。そんな奴らを納得させるには、自ら言葉の力で信頼関係を築くことが重要となる。  ヤクルトの監督になって1年目(1990年)、アリゾナキャンプのミーティングでは、常に選手の興味を引く話をするように心がけた。話すだけでなく内容をホワイトボードに文字にして書き連ね、必死に言い聞かせた。その積み重ねで、選手から信頼されるようになったんだ。  特に力を入れて「教育」したのが、私と同じポジションの古田(敦也)。捕手は監督の分身だから、古田にはまず、「捕手の指1本でチームの運命が決まる」と責任の重さを自覚させた。  打者を分析し、コースと球種を要求するのが捕手の仕事。捕手のサイン1球、1球には明確な根拠が必要であり、「なぜ外角高めの直球を要求したのか」と聞かれたら、即座に言葉で説明できなきゃいけないと教えた。 私が楽天の監督になった直後の、嶋(基宏)のように、困ったら配球も考えずに外角一辺倒というリードでは勝てない。  他の選手に対しては、「無視」「称賛」「非難」の三段階で接した。二流選手は無視して、ちょっと実績を残すと褒める。 一流選手には、「お前がやらないとチームがダメになる」と強く当たる。監督に非難されるようになって一人前で、「褒めて育てる」なんて論外だよ。  人間の才能には限界があるけど、頭脳に限界はない。俺は選手にとことん頭を使うことを求め、ミスした選手には、「何で失敗してもお前を使っているか、自分で考えろ」と諭した。  そうした言葉が花開いたのが、ヤクルトでの日本一(1997年)だった。ただ、やはり「選手である前に、社会人である」ことを徹底できないと言葉も意味を持たない。 後に阪神の監督になって同じようにやったけど、スター選手としてチヤホヤされているタイガースの選手は聞いちゃいなかった。自分の言葉が伝わる球団と伝わらない球団があると学んだよ(苦笑)。 ●のむら・かつや/1935年、京都府生まれ。1954年に南海にテスト生で入団。タイトルを多数獲得し、1965年、戦後初の三冠王に輝く。引退後は監督としてヤクルトでリーグ優勝4回(うち日本一3回)を経験。その後阪神楽天を率いた。1989年野球殿堂入り。現在は野球解説者。 ※週刊ポスト2016年10月14・21日号 http://www.news-postseven.com/archives/20161009_453311.html?PAGE=1#container